花王株式会社 生活者研究センターは、2016年に、慶應義塾大学総合政策学部 井庭崇研究室との共同研究プロジェクトにて、自分らしく子育てしながら働くためのヒントを34のことばにまとめたパターン・ランゲージ『日々の世界のつくりかた』を制作しました。
変わり続ける生活者の日々をとらえる新たなチャレンジについて、同社生活者研究部(2018年に生活者研究センターから改称)部長の宮川聖子さんにお話をうかがいました。
「どうしたら、生活者の声を商品に反映させられるのだろうか」
当社は「自然と調和するこころ豊かな毎日を目指して」を理念に、お客様の文化的生活を支える商品を開発・製造しています。時代の変化に伴って変わりゆくお客様の意識やライフスタイルを捉え、それを商品に反映させることが欠かせません。私は、研究開発部や事業部を経て、2014年より生活者研究部(2018年に生活者研究センターから改称)の部長を務めておりますが、当初の研究開発部時代から、お客様である一般家庭を訪問してインタビューを行い、生活者のご意見を聞いてきました。
生活研究部の役割は、「いかに生活者の気持ちを商品にのせて社会に戻すか」を考えること。年間400~500人の生活者からお話を聞き、拾い上げた生活者の気持ちを、社内の事業部をはじめとする部署に届けています。つまり、生活者の漠然とした回答から、「企業として、誰を対象にどんな商品を作っていくべきか」について、アイデアのきっかけとなる情報を伝えるわけですが、他部署の担当者が使いやすい形で伝えるのはなかなか難しく、そこが、私たち生活研究部の課題でもありました。
新しい情報フォーマットとしてのパターン・ランゲージへの期待
パターン・ランゲージとの出会いのきっかけをくれたのは、富士通研究所の岡田誠さんでした。2015年に慶應義塾大学総合政策学部 井庭研究室とともに「認知症とともによりよく生きるためのヒント『旅のことば』」を作成した方です。
岡田さんに誘われて『Fearless Change アジャイルに効く アイデアを組織に広めるための48のパターン』(丸善出版)を使ったワークショップに参加した時に、初めてパターン・ランゲージを知りました。ある状況において生じる問題の「解決」を表す手法として、「こういう方法があるのか」と衝撃を受けるとともに、「パターン・ランゲージは、生活者の意見を商品開発につなげるためのツールとしても使えるのではないか」と可能性を感じました。
さらにちょうど、生活者のインタビューの中で、当社のメイン商品のターゲット層である20代~30代の女性には「子どもを産んでからも仕事を続けたい」、「自分らしく暮らしたい」と考える人が増えていること、一方で、「働くこと」と「育児」の両立に、不安を感じている人が多いということを感じていました。「どうしたら企業として、こうした不安を抱いている女性たちを応援することができるか」ということを、常に考えていましたので
仕事と子育ての両立のコツについて、パターン・ランゲージで示すことができれば、彼女たちを応援できるのではないかとも感じました。私たちはメーカーではありますが、モノを作って売るだけではなく、ママ層向けの暮らしに役立つ情報発信などもしています。「自分の暮らしを大切にしたい」、「仕事と家事を両立させたい」というお客様の想いを、モノとは別の形に反映させてお客様に貢献する新しいアプローチとして、パターン・ランゲージが活かせるのではないかと思ったのです。
「両立のヒント」を34のパターンに集約し、『日々の世界のつくりかた』が完成
2016年の春から、子育てをしながら働く女性たちの世界観を示せるようなパターン・ランゲージの作成に向けて、慶應義塾大学総合政策学部 井庭研究室との共同プロジェクトがスタートしました。まずは、女性たちの「働くこと」 と「家庭」を両立する悩みや葛藤を深く知り可視化するために、当社の契約モニターなどから、子育てをしながら働く女性15名にご協力いただき、「両立の秘訣」を聞き取ることから始まりました。
インタビュアーは井庭研究室の女子大学生4名が務め、私たち花王チームはサポートに回りました。ここでびっくりすることが起こったんです。井庭研究室の学生さんたちは私たちがリサーチインタビューとして行うものとかなり異なるインタビューをされました。彼女たちの方が話す時間が長いくらいよくしゃべるんです。でも、その対話的な姿勢によるものなのか、モニターさんたちも学生さんやその家族のことをどんどん質問したり、自分のことをたくさん話したりする姿が見られました。私たちに対する態度と全然違うんですよね。お客様を知る手段としては、こんなスタイルもあるのかと。この驚きは「対話の場」をつくることが、生活者の日々をつくっていくという、その後の活動に大きく影響をしています。
インタビューから導き出された「両立の秘訣」は付箋にして924枚に及び、グルーピングを繰り返し、最終的に34のパターンに分類・集約していきました。各パターンについて、「そのとき→そこで→そうすると」と順を追って記述することで、状況を把握し、問題を解決しながら、その工夫を実行したあとの結果が期待できるような仕組みになっています。
そうしてできたパターン・ランゲージは『日々の世界のつくりかた~自分らしく子育てしながら働くためのヒント~』として、2017年からは関心のある方に無償で配布をしています。また、花王生活者研究センターのサイト「くらしの研究」からPDFをダウンロードできるようにしており、広く生活者のみなさんに届けていけたらと思っています。
生活者をとらえる新しいツールとしての可能性
完成後、『日々の世界のつくりかた~自分らしく子育てしながら働くためのヒント~』をカードにしたものを使いワークショップも開催してきました。2017年の実績は社内ワークショップが12回(参加者120名)、社外ワークショップは10回(参加者266名)となっています。社外ワークショップとしては、ハローワークからの依頼で復職するお母さんたちの対話の場をつくったり、家政学会でランチョンセミナーをしてみたりしました。
最近のワークショップでは、まず、参加者に今までの人生のアップダウンを「自分曲線」として描いていただき、その時々の状況に当てはまるカードを選んでいただきます。さらに、これからの人生で何が起きそうなのかを想定してもらい、そのときに使いたいカードを選んでもらいます。カードをきっかけに参加者同士で対話することで、普段、忙しくて自分と向き合う時間がない方にも、改めて自分の気持ちを見つめてもらえるという点で、「内省型ワークショップ」と言えますね。
このワークショップを通じて、従来のヒアリング型とは違うアプローチで生活者との接点を持つことが可能になりました。通常、リサーチのインタビューでは、「将来どうなりたいですか」「どんな商品が欲しいですか」という質問は禁じ手だと私は思っていますが、パターン・ランゲージを使って「将来使いたいカードはどれですか?」と聞くことで、生活者が未来の「日々の世界」で取り入れたい気持ちを、生活者自身に語ってもらうことができるんです。するとそこから、「その気持ちを実現するために何が必要か」ということが見えてきます。今は、こうしてとらえた生活者の要望や気持ちをどう調理し、商品開発につなげるかを模索している段階ですが、いずれ商品にして生活者に返していけるようになりたいですね。やはり花王はメーカーですから。
参加者の皆さんの感想からも、よい機会を提供できているのではないかという感触を持っています。
女性参加者からは、「普段思っていることが言葉になっていて、共感できる」、「自分の状況や気持ちが整理できた」、「気持ちがラクになった」、「前向きな気持ちになった」、「パートナーにも読んで欲しい」など。男性参加者からも、「働く女性の心理が理解できた」などの感想があがっています。
世代や立場を超えたコミュニケーションツールとしても
『日々の世界のつくりかた』の想定外の使われ方として、当社事業部のマネジャーが、産休から戻ってきた女性社員に手渡ししたところ、「自分が理解してもらえているようでうれしい」と言われ、コミュニケーションが活発になったという報告がありました。『日々の世界のつくりかた』は、世代や立場を超えたメンバー間のコミュニケ―ションツールとしても効果を発揮し、相互理解が進み、議論の深化やチームワークの醸成にもつながっているようです。
また、社外では、国連人口基金(UNFPA)とCSRアジア東京事務所が、民間企業を対象に共催した「アジアにおける企業CSR活動と高齢化セミナー」に呼んでいただき、『日々の世界のつくりかた』カードを使用したグループワーク体験を実施しました。『日々の世界のつくりかた』は、ママやその下の若い方を主なターゲットとして作成されたパターン・ランゲージですが、こうした体験を通じ、すべての人のくらしに寄り添うツールになり得るという自信を深めることができました。
狙った属性ではないところで、新しい使い方が生み出されるあたりが、やはり“ランゲージ”なのだと改めて感心しています。商品と同じで、狙った使い方ではない使い方をされた方がヒットするのは興味深いですね。では、ターゲット層への効果はどうかと言いますと、忙しくて、なかなか自分と向き合う時間を作れないママ層ではありますが、ジワジワと効果が表れていると感じています。「『日々の世界のつくりかた』は、詩集のように、時々パラパラとめくることで、何かの言葉がストンと腑に落ちることがある」と言ってくださった方もいます。
現在、自治体からもワークショップのオファーがきています。1、2回は一緒にやらせていただいていますが、大切なのは、その後、地域の方が主体となって取り組める仕組みを作ることだと思っています。今後も、全国各地に『日々の世界のつくりかた』を活用する仲間を増やし、広げていきたいですね。
世代や立場を超えたコミュニケーションツールとしても
先ほども触れましたが、『日々の世界のつくりかた』の制作のためのインタビューでは、学生インタビュアーが一方的に話を聞くだけではなく、会話のうち4割くらいは学生さんが話していました(笑)。お母さんたちが若い学生さんに興味津々で質問し、学生さんも、自分の母親や育った環境について語るという状況でした。親としては、「自分のやり方は子どもたちにとって、良いのかどうか」、「子どもたちはどう思っているのか」ということがとても知りたいものなのだと気づかされました。私も、子ども視点の言葉を形にして残したいという思いが膨らみ、翌年の共同研究では、家族のあり方・暮らし方の多様なスタイルを『家族を育むスタイル・ランゲージ』としてまとめました。『家族を育むスタイル・ランゲージ』はパターン・ランゲージではなく、390の個々のスタイルを言語化したカードです。1枚1枚はすべて子育ての受け手である大学生から見て「うちの家族のここは良かった」というもの。これらのカードから、多様な家族のスタイルを知り、自分たちなりの「日々の世界」をつくるためのヒントにすることができます。
『日々の世界の作り方』がマインドセット編だとすれば、それに続く『家族を育むスタイル・ランゲージ』はそれに呼応しうる実装編と言えるでしょうか。それぞれをワークショップなどで活用していくことで、参加者が自分なりの「日々の世界」を作る一歩を踏み出すきっかけとなるのであれば、心豊かな世界をつくっていくことを目指す花王として、「商品をつくり届ける」という方法だけではない新しい価値をつくっていけるのではないかと思っています。
(取材・執筆 鯰美紀)