2019年2月に出版された『クリエイティブ・ラーニング:創造社会の学びと教育』(慶應義塾大学出版会)の編著者である慶應義塾大学総合政策学部教授・井庭崇氏と、対談相手の一人である探研移動小学校主宰・市川力氏へのインタビュー。前編では、「クリエイティブ・ラーニング」(創造的な学び)とは何なのか、クリエイティブ・ラーニングに何を期待しているのかなどをたっぷりお話いただきました。
この後編では、クリエイティブ・ラーニングの実践の核となる「ジェネレーター」という担い手について、また、家庭での実践のヒントなども語っています。本書をすでに読まれた方はもちろん、まだ読んでいなくてもご理解いただける内容です。ぜひ、未来の教育を考えるきっかけとしてみてください。
「創造愛」が生み出す創造社会でのきずな
井庭:本書を書くにあたって、「KJ法」の生みの親として有名な川喜田二郎の著作を読み直すと、彼が「創造」にまつわる本質的な論を展開していたことに改めて気づかされました。川喜田は、人が創造的な活動に取り組むと、そこでつくられるもの(客体)だけでなく、それをつくる主体もつくられる(成長する)のだと言いました。そのとき、さらに、創造の場が「ふるさと」になると言います。これは、たとえば、井庭研で創造的な研究活動をした卒業生たちにとって、そこは「第二のふるさと」とも呼ぶべき特別な場になるのだ、ということです。これを彼は「ふるさと化」と言います。
今回、読み直して面白いと思ったのは、「ふるさと」というのは、普通は生まれ育った故郷の地域のことを指すわけですが、そのことをどう捉えるのかという話です。川喜田は、自分が生まれ育った地域を「故郷(ふるさと)」だと感じるのは、そこが子どもなりに思いきり創造的に生きた場所だからだと言います。つまり、単に幼少期を過ごした場所が故郷になるのではなく、子ども時代の創造的な活動をした結果、その場が「ふるさと(故郷)」と呼ばれるような存在になるのだ、というのです。実に面白いですよね。同じように、大きくなっても、大人になっても、人は第二、第三、第四の「ふるさと」ができるのであると。さらに川喜田は、つくった場所に加えて、つくったものや、一緒につくった仲間などに愛が生じるとしていて、それを「創造愛」と呼びました。
さらに興味深いのは、人は創造的行為を本格的にすると、ほかの場所で創造的行為をしている人に対しても、共感的につながり得るのだと言っている点です。つまり、僕が自分の分野で創造的な活動をすると、他の芸術やスポーツ分野で創造的活動をしている人や、地域開発をしている人たちとも「創造」という観点で共感し合い、連帯感が生まれるということです。
なぜ僕がこの点に着目したかと言いますと、これからの社会のあり方を示唆していると思うからです。かつて、社会学者のエミール・デュルケームは『社会分業論』の中で、「分業によって人々の間に連帯感が生まれる」と言いました。つまり、自分は靴を提供する代わりに、パンを提供してくれる人や時計をつくってくれる人がいるわけで、その人たちとの間に連帯が生じる、それが社会を成り立たせるのに重要だというわけです。
ところが、僕が思うに、今の社会では、分業は専門分化の壁が生まれ、ガチガチに固められていて、連帯どころか、むしろ断絶を生んでいます。分業化の過程では生まれ得る連帯の意識も、縦割りの壁が存在するなかで生まれた人たちにとっては、すでに横のつながりは失われていて、断絶と断片化を生み出してしまっている。僕はこのことをずっと危惧していて、これからは、連帯を感じられる「共創社会」(ともにつくる社会)に変えていかなくてはならない、そのためには分業ではない越境や協働が必要だろうと思っていたのです。
川喜田の「創造愛」の話はまさにそこにつながる概念です。これからの創造社会においては、創造的な行為をする人々の間に、創造経験を共通項とした連帯感が生まれ、それが社会的なきずなとなる。つまり、創造行為のテーマの対象は違うけれど、それぞれ創造的行為をしているということで、「わかるよ、大変だよね」と共感し、「すごいね」と尊重し合うことができる。これは、創造社会における連帯のあり方として、すごく希望がもてると思いました。
市川:いいですね!僕の目指す小学校は、「小=small」に価値を見出す場であって、児童が通う場という意味ではありません。小さいこと、自分ができる小さな範囲を一生懸命やる場ということかなと。そうなると分業せざると得ないから、自分はできることをやって、ほかはだれかに任せようという気持ちにもなるし、お互い任せあうことが心地よくなりますよね。
今までの教育論では、創造的な子というのは、何でもできるスーパーマンであり、将来は大きな会社を経営して、多くの人を雇って、ハッピーな世の中を作っていく、というイメージだったかもしれません。でも実はそうではなくて、小さな創造的行為をしている人たちが、ささやかに連帯しながら生きるという、それこそが幸せにつながるイキイキした生き方なのかもしれませんね。今、井庭さんの話を聞いて、そう思いました。
「ひと仕事」をかなえるツール、パターン・ランゲージ
井庭:川喜田は、いまから半世紀以上前に、「今の社会の分業は、ひとまとまりの仕事ではなく断片的な作業になってしまっていて、そのことで多くの人が、問題解決を含む『ひと仕事』に関われなくなっている」という趣旨のことを指摘しています。僕も、まさにそう思っています。社会的に他者と分業しているだけではなく、仕事自体が、断片的な作業になってしまっていて、プロセスのすべてには関われなくなっているのです。得意を生かす社会というのは、他方で、得意なことしかやらせてもらえない社会にもなり得るわけです。
これに対して、物事を最初から最後まで関わると、自分が苦手なことにもチャレンジしないといけないし、途中に生じる問題も自分で乗り越えないといけません。そういうことも含めて、川喜田は、「ひと仕事」をやってのけるということがとても大切で、それが創造的行為となるのだと言うのです。
僕は、パターン・ランゲージというのは、「ひと仕事」を実現することをサポートするツールになると思っています。つまり、これまで人に任せてしまっていたことも、自分でやってみるきっかけになるのです。パターンそのものが実践のコツについて書いているので、それを読んで実践してみることができます。また、パターン名(コツの名前)を語彙として、経験者から経験談を聴くこともできるようになります。様々な分野でパターン・ランゲージがつくられるようになれば、多くの人が、自分でいろいろな分野の実践に関わることができるようになります。創造的活動の幅と自由度が上がるのです。
教育での活動のデザインも同様のことが言えます。慶應義塾大学SFC井庭研究室では、自分たちで「ひと仕事」やってのける、ということを大切にしています。井庭研でつくった『対話のことば:オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』(丸善出版)は、学生とともにつくり込んだ本文の文章だけでなく、イラストや本文のレイアウト、表紙のデザインもすべて僕自身で手がけています。つまり、印刷以外は本1冊丸ごと自分たちでつくったわけです。『旅のことば:認知症とともによりよく生きるためのヒント』(丸善出版)も、井庭研の学生とイラストを描いて、表紙も学生がデザインし、すべて自分たちでつくっています。よく「イラストは外注しているのですか」とか、「イラスト担当の人がいるのですか」と聞かれますが、そうではなく、すべてのプロセスをみんなで取り組みます。
なぜそんなことが可能かというと、「パターン・ランゲージのイラストはこう描けばいい」ということが、OJT的に継承されたり、最近ではパターン・ランゲージとして明示的に言語化されたりしているからです。美術が苦手だという学生にも、「大丈夫。このパターンがあるから」と。
このようにパターン・ランゲージがあることで、アマチュアでも一貫して最初から最後までひと仕事やってのけることに意味があると思うのです。このことは、市川さんがよく「アマチュアで、いいのだ」とおっしゃっている、ポジティブなアマチュアリズムなのです。ひと仕事をやってのける人が増えて、そういう人同士の創造的な共感性によって社会が築かれていくなら、希望が持てますし、僕は自分の研究・活動を通じて、社会がそういう方向に進んでいけるように先導したり後押ししたりしていきたいと思っています。「社会分業論」ではなく、「社会共創論」こそが、新しい創造社会における基本思想になると思います。
市川:井庭さんのお話は、僕が思っていることとつながるなと聞いていました。僕も、アマチュアからスタートして自分なりにやりながら学んでいい、完璧でなくていい、だけど、ひと仕事することが大事だと伝えたいですね。
子どもはみんなアマチュアですよね。大人もアマチュアからひと仕事やってのけないと成長できません。僕は、「大人もアマチュアとして学びましょうよ」と提案しています。「でも、どうしていいかわからない」というときに、やったことのある人の経験が言語化されてパターン・ランゲージとして共有されていれば、それを参考にできます。あるいは、自分の経験をパターン化して書いてみることで、次につなげることもできます。デューイのいう経験の再構築、経験を連続させていくことで成長していくという道筋ができます。パターン・ランゲージによって、創造が単発の経験で終わらず続いていくイメージができましたね。
井庭:本書でも取り上げたジョン・デューイは、「習慣」ということに着目します。日常的な意味では、繰り返し行っている行動のことを「習慣」と言いますが、デューイが言う「習慣」は、物事に向かう姿勢・性向のことを意味しています。しかも、悪い習慣だけでなく、良い習慣、創造的な習慣というものも含まれています。人間は、経験のなかで習慣を形づくり、その習慣が形成されるから、経験の連続性が生まれる。日々の経験のなかで物事に向かう習慣を構成している。パターン・ランゲージはそのための実践・経験をサポートするのです。
副業が、アマチュアからスタートする「ひと仕事」になる
市川:これからは、ひとつの仕事だけをするのではなく、副業が当たり前の時代といわれています。2つ目、3つ目のやりたいことを見つけたときは、スタートラインはゼロからなので、アマチュアとしてスタートするしかありません。自分がなんとなくやりたいことをアマチュアとしてスタートすることを、今までは趣味と言っていましたが、これからは、趣味が仕事に近づくのではないでしょうか。
今までなら、まず学校に通って学ぶとか、資格を取るということになったと思うのですが、そうではなく、仕事しながら学ぶことになります。靴を作るなら、まずは、だれかを真似しながら、最初から最後までひと仕事を全部自分でやってみる。そのプロセスで、靴の作り方を学ぶ以上に、ひと仕事やってのけるという感覚を学び、クリエイティブ・ラーニングを体感できます。その体感したものを、自分でパターン・ランゲージで言語化することで、ひと仕事やって得られた経験や成功の感覚を、次の創造につなげることができます。パターン・ランゲージがあることで、アマチュアも含めてみんなが創造できるようになり、創造的な人のつながりが生まれ、連帯が起きるということがイメージできます。
井庭:これから大切にしていくべき副業というのは、単に自分の得意なことを切り売りしていくということではありません。つまり、切り刻まれた断片的な「作業」をするということではないと捉えることが重要だと思います。朝、農場で水撒き作業をして、昼にラーメン屋でネギを大量に切るところを担当し、夕方はスーパーのレジ打ちをして…というのでは、一部の断片的な作業を複数担うパートタイムの兼業になってしまいます。
そうではなく、ひとつひとつの副業が「ひと仕事」になるようにすべきです。もともと趣味というのは、「ひと仕事」ですよね。園芸が趣味なら、肥料やりから剪定、ゴミの始末までのひと仕事すべてをするわけです。園芸が趣味の人で、ひたすら肥料をやる作業だけに特化している、なんて人の話は聞いたことがありません。市川さんのいうように、趣味が仕事に近づくということのよさ、副業が可能になるよさ、というのはその点にあります。収入の柱である本業は、なんとかして利益を生むために、得意なところに特化して一部の作業を担うことになるのは仕方がないかもしれません。でも、副業は、そういうことに対するアンチテーゼなのだと思っています。
副業を断片ではなく、「ひと仕事」するという方向に向かっていくようにすることが、これからの社会における精神的な健全さのためには重要です。そして、そういうことが可能になるためにも、それぞれの分野でパターン・ランゲージがあり、パターン・ランゲージを使った対話を通じて、ほかの人から学べることが大切だと僕は考えています。
創造は、想像以上に身近!?
市川:たまに井庭さんに投げられる質問として、「パターン・ランゲージは私にも書けるでしょうか?」というのがありますが、それを聞いていると、「なぜできないと思うのかな。自分でひと仕事やってのけた経験がないのかもしれないな」と思うのです。本来、創造すること、何かをつくって、あるべき姿にするという行為は、理不尽な思いを伴うし、うんうん唸って苦しむことでもあるし、失敗してつくり直すこともあるかもしれない、そういうものですよね。
井庭:そうですね。質問の答えとしては、「誰にでもひらかれています。創造や産みの苦しみを経てやり抜くつもりがあれば、できると思いますよ」ということになりますね。一般に「クリエイティブ」(創造的)な活動というと、「重たい」と感じる人もいるようです。
でも、僕たちは、認識していないだけで、生活のいろんなシーンで「創造」してるんです。人に渡すちょっとしたメモ書きを工夫して書くということだって、もしかしたらひとつの創造と言えるかもしれません。ごはんのメニューを決めて料理することも、創造の一種です。本当にちょっとしたことでも、何かをつくったり、問題を解決したりするということは創造だと捉えていいのです。
そうそう、川喜田二郎を読んでいたら、「なぜ西洋では、主体が客体をつくる方向だけが意識され、主体もつくられるのだという発想がないのか」ということに触れている箇所がありました。川喜田は、西洋はキリスト教的世界観では、創造のもっとも根源的なイメージは、世界の創造であり、それは神の行為だと。神は万能・不変なので、世界をつくったことで神が成長するということはなく、つまり、創造の主体は変化しないという考えが自然だったのではないか、と言うのです。なるほど、と思いました。おそらくそうなのでしょう。
市川:なるほど、面白い。天地創造の神も、再創造されるものだと捉えると、かなり創造のイメージが変わりますね。川喜田二郎、すごいですね。
井庭:ですよね。僕は、創造というのは「発見の連鎖」のことだと考えています。僕の「創造システム理論」の本質はそこにあります。次々に何らかの発見(気づき)が生じる連続があるということが、創造的(クリエイティブ)ということなのです。そう考えれば、芸術作品をつくることも、商品開発をすることも、目の前の問題を解決することも、冷蔵庫にある食材で料理をすることも、自分の生き方を考えることも、すべて「発見の連鎖」による創造だということです。
棋士の羽生善治さんの著書を読んで、僕は初めて、将棋もクリエイティブな活動なのだと気がつきました。それまでは、将棋などのゲームは何かの成果物を生み出すわけではないので、創造的活動のなかには含まれるイメージがなかったのですが、発見の連鎖という観点で捉えれば、将棋はきわめて創造的だとわかります。羽生さんの本を読むと、それが創造的活動だということがよくわかります。
創造することで閉塞感を脱し、やりがいと希望のある社会へ。
井庭:川喜田二郎は、創造に絡めて、「やりがい」と「生きがい」の話もしています。断片化された作業しかしかやらせてもらえないと、やりがいを感じられない。これでは不満を募らせてしまう。これは、今の日本社会の閉塞感の根本原因なのではないかと感じます。そうではなく、創造的活動としての「ひと仕事」をやってこそ、やりがいをかんじられ、そういう経験を重ねることで、生きがいが得られると言います。
創造的活動には、ある種の生みの苦しみが伴いますが、それゆえに、やりがいや生き甲斐が得られるのです。趣味が楽しいというのはそういう理由ですよね。だからこそ、趣味や副業では、「やったことがないからできない」ではなく、やったことがなくても小さな範囲で試みて経験を重ねていく。小さな冒険を積み重ねる経験がやりがいや生きがいとなり、そのような気持ちをもった人たちがつながることで、社会はますます創造的になっていきます。最初は、家族のためにカレーをつくるということだってよいのです。
市川:カレーライスをつくることだって、充分クリエイティブですよね。そういう身近なところでひと仕事やってのける経験こそ、クリエイティブ・ラーニングの基本。これを続け、高めるためのツールが、パターン・ランゲージによる言語化です。
一般的に、振り返りというと、「こうすればよかった」、「ここが悪かった」とネガティブになりがちです。一方、ポジティブな会話につなげるために、あるいは、次のアクションに希望を与えるために言語化しようというのが、パターン・ランゲージだと感じています。
井庭:川喜田は、「創造愛」の話のなかで、自分がつくったものや仲間に対する愛だけでなく、そこから発展して世界も愛するようになると言っています。これは、自分の実感としても、本当にそうだと思います。本格的な創造のことを、僕は「無我の創造」(egoless creation)と呼んでいますが、自分がつくっていても「自分がつくった」という感覚がないんです。もちろん、その創造に関わっていますが、自分がつくったのではなく、そのものが生まれるというのをサポートしたような感覚です。そうなると、「俺ってすごいぜ」ではなく、世界における生成そのものに、感嘆してしまうようなすごさを感じます。世界の奥深さというか潜在力というか。
今の日本に欠けているのは、この「創造愛」なのではないかと思います。今、日本人は一般に自己肯定感も低いし、自分たちが生きる世界に対して絶望的に眺めている人が多いと感じます。自分をとりまく世界に疎外され、傍観者のように立っている。世界との関わりがないのです。この原因は、「経験の貧困」にあると言ってよいでしょう。
小さな創造経験を重ねることで、手応え・効力感を得ながら、ものや仲間や世界を愛するようになる。こうして初めて、自分が世界に関わっていくことに対して希望がもてるようになるのです。閉塞感を脱して、希望がもてる社会にするためにも、クリエイティブ・ラーニングやパターン・ランゲージが果たせる役割は大きいのではないかと期待しています。
家庭の中でのクリエイティブ・ラーニング
——『クリエイティブ・ラーニング:創造社会の学びと教育』は、普通の親が読んでも、何か行動したくなる要素がありそうですね。
井庭:この本を読むと、家庭での子育ての仕方についてもいろいろと発見があると思います。なかには、子どもを育てるとか、子どもの学びをつくるという考え方がガラッと変わる人もいるかもしれません。子育てにもクリエイティブ・ラーニングはとても重要ですから、お父さんやお母さんにも、ぜひ読んでいただきたいですね。
本書の序章でもジャン・ピアジェの引用で、「家庭がどういう場であるべきか」という話に触れています。家庭での学びは、知識詰め込み型にはなり得ないですよね。では、「今週末、何をしようか」というときに、何かをつくることに挑戦してみるということは、親が提供できるクリエイティブ・ラーニングの機会だと思うのです。そういう意味で、親という立場の人たちも、本書をきっかけに子どもにしてみたいと思えることを何か見つけてもらえるとうれしいです。
市川:親がこの本を読んで感じて変わることは、多分にありますね。実際に、僕はこの本を読んで感化された母親に呼ばれて、一緒に活動するということが始まっています。
親がジェネレーターになり、楽しみをつくりだす
——子育てにクリエイティブ・ラーニングを取り入れるということは、親がジェネレーターになるということですよね?
市川:これまで、子育ての現場でよく言われていた「母親は良い聴き手になろう」とか、「親は子どもをどう褒めるべきか」というのは、親子のコミュニケーションを中心とした話であり、ファシリテーター型の子育てだといえます。ファシリテーターとして母親は、悪者に仕立て上げられることが多いのです。「お母さんの子どもとの関わり方はここが悪い。だから、こうしてください」というように。で、面白いのは、案外お母さんたちも叱られるのが好きだったりして、「はい、わかりました。明日から私がんばります」とか案外従順なんですよね。でも、「親だから、こうあらねばならない」という考え方をしていると、どんどんストレスがたまってきます。
井庭:ファシリテーターは、どうしても、子どもに何かを「させる」という関わり方になってしまいます。たとえば、自分は本を読まないのに「本を読みなさい」と言ったり、自分は英語を話そうともしないのに、「英語はできるほうがよいよ。だから、がんばって勉強しなさい」と。こうして、子どもから「自分はしないくせに」と思われてしまう。一方、ジェネレーターとしての親は、子どもと一緒に活動します。自分も面白がってやってしまうのです。そこがジェネレーター型の子育ての大きな特徴です。
市川:僕の活動で「親子で一緒にベンチをつくって公園に置こう」という試みがあります。こうして、父親がジェネレーターとなって一緒につくり始めると、帰宅してから、「お父さんは、あれが面白かったなぁ」、「へー、お父さんはそうなの? 私は…」といった感じで、父子で対等に面白さを熱く語り始める対話スタイルに変わってきます。「お前、今日は何が面白かったんだ?」と他人事として聞くだけのようなコミュニケーションはしなくなるのです。
実は簡単。中に入り、主体となって面白がるだけ
——親がジェネレーターになるために、必要なことは何でしょうか?
市川:好奇心旺盛に面白がることに尽きます。たとえば、親がファシリテーターとして子どもと関わろうとすると、「散歩は子どもが自由に考える時間です。だから、子どもの発見はすべて受け止めましょう」となります。これだと疲れますよね。一方、ジェネレーターとしての親は、ただ、子どもと一緒に面白がればいいのです。
井庭:市川さんが子どもたちから「おっちゃん」と呼ばれながら、何をしているかというと、子どもたちが何を面白がっているかを見て、それを一緒に「面白がって」いるのです。
市川:僕はジェネレーター入門講座を主催していますが、親子で2時間ほど、目的も行き先も決めずただ散歩をしてもらいます。親が面白いことを発見したら、それを子どもと共有して楽しむ。親も子も一緒に、本気で面白がって遊ぶ。それができたら、もう立派なジェネレーターですよ。ちなみに、子どもはみんな好奇心旺盛で、ジェネレーターです。本来、みんな好奇心を持っているのに、大人になり、親になると、それを失うか、封印してしまっているのです。
井庭:うちの中学生の娘との具体例で言うと、好きな日本語の歌(例えばジャニーズの歌)の歌詞を、英語の歌詞に翻訳して英語の歌にしてみる、ということをしたことがあります。同じ歌詞をそれぞれ英語にして、できたらお互いに見せ合って、「ここはこういう意味だと思った」「こういう表現にして工夫をした」「どうしてそうしたの?」などと話し合います。歌詞は省略もあり直訳できないですし、そのまま訳しても歌えそうな歌になりません。だから、解釈や表現が必要になります。そういうなかで、言語の違いや文化の違いも感じることになります。これが良いのは、これは、家庭でのクリエイティブ・ラーニングの例としてわかりやすいのではないかと思います。
僕は三人子どもがいるのですが、もっと小さい子の場合、親として週末に「ジェネレーター的に子どもと何かやろうかな」とういときは、まずは子どもがやりたいことを聞きます。そうすると、「スクーターに乗って公園に行きたい」みたいな単純なことだったりするわけです。で、僕の場合は、そこに自分を重ね合わせて、自分がどうしたら面白がれるかを考えます。付き添いで行くのは僕自身が面白くないですから。それで僕も楽しめるように、「一眼レフを持ち出して思い出写真を撮ろうか」とか、「ジャージを着てジョギングしながら行こうか」とかね。子どものやりたいことと、自分を重ね合わせて、どうすれば自分も楽しめるかを考えるのです。
あとは、そのための時間をガバッと確保して、その時間だけは、仕事とか雑用のことはすべて忘れて自分も楽しむ。自分が楽しめば、「すごい。こんな色の花が咲いているよ」と子どもに伝えたくなるし、子どもに「穴を見つけたから、水を入れてみたい!」と言われたら、「いいね。やってみよう」と一緒に楽しめるのです。
市川:僕のジェネレーター入門講座では、最初に、まさに井庭さんがおっしゃった重ね合わせのワークをします。参加者に、「うちわを好きになってください」、「用水路を好きになってください」とお題を与えるのです。最初はみんな戸惑いますが、ペアを組んで、うちわや用水路について、無理にでも語ってもらうと、そのうちスイッチが入って、だんだんイキイキと熱く語り始めます。どんどん発想がジェネレートしてきて、面白いものが出てくるんですよ。相手の興味とコラボレーションする、それこそが重ね合わせ。うちわや用水路に、自分の興味を重ね合わせて楽しめることを体感すれば、子どもとの重ね合わせはもっと簡単にできると思えるし、むしろ、楽しいからどんどんやりたいという気持ちになりますよね。
井庭:重ね合わせでは、必ずしも大人が子どもの目線におりて、同じことをする必要はありません。たとえば、子どもに「しりとりをしよう」と言われたときに、うちは親の方には「むずかしりとり」(難しい-しりとり)と呼ぶ追加ルールを加えています。どういうことかというと、大人は「大人は、しりとりでは使わないような難しい言葉しか使わない」というルールにするのです。
「りんご」「ゴリラ」「ラッパ」みたいなしりとりでは正直、大人は面白くないですよね。これが「むずかしりとり」だと、「りんご」「ゴルゴンゾーラ」、「ラッパ」、「パリジェンヌ」…みたいになります。そうすると、「え、ゴルゴン・・何?」「ぱりじぇんぬ?」となるので、「チーズの種類なんだよ」とか「パリジェンヌというのは・・・」と説明することになります。子どもにとっては、新しい言葉との出会いにもなります。
また、オセロであれば、普通に勝負したら大人が勝ってしまうし、面白くありません。だから僕は、「どうしたらギリギリのところで相手に勝たせるか」に挑戦にするわけです。無理して子どものレベルに合わせるのではなく、子どもの楽しみに重ね合わせて、大人は大人の楽しみ方を考えて、それを重ねることで、自分にとっても面白くなるようにするのです。
市川:そうそう。子どもも本気で楽しめるし、大人も本気で楽しめる状況をつくるのが、ジェネレーターとしての「子どもに合わせる」であり、「子どものレベルに合わせる」ではありません。子どもは「君はこの程度だよね」と自分のレベルに合わせてくる大人が嫌いですから。僕は子どものレベルに合わせないで、自分のレベルで本気で楽しんでいるから、「先生」ではなく「おっちゃん」なのです。
——お二人の話を聞いていると、ジェネレーターになるのはとても簡単な気がしますし、今すぐやってみたくなります。この感覚こそが、『クリエイティブ・ラーニング』の読後感なのかもしれませんね。
市川:簡単という意味で補足すると、親がジェネレーターになるのは、週に3〜4時間でいいのです。24時間ずっと親としてがんばらないといけないと思うと、疲れるじゃないですか。
井庭:そうそう。週に一回、ジェネレーターとしてガッツリ過ごせば、子どもは満足して、ほかの時間は親から離れて、一人で何かやっていますよね。そうやって自分で何かをしている時間も重要です。
市川:母親から「うちの子は公園にいるときは好奇心をむき出しにしていたのに、家に帰ったらゲームを始めてしまいます」と相談されることがありますが、子どもだって、家に帰ったらゲームをしてもいいのですよ。親も子も、「ずっと、こうでなければ」なんてことはないのです。
模倣はクリエイティブの源。子どもは模倣を通じて知識を構成する。
井庭: 『クリエイティブ・ラーニング』の序章で、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」を取り上げていますが、僕は本書を書くためにヴィゴツキーを読み直して、何か新しいことをするときには、子どもは「模倣」してやってみるのでよいのだということを学びました。これは、僕自身の子育てにかなり影響をもたらしました。
今までは、「安易に」手本を見せたり、やり方を教えたりしたら、子どもは真似をするだけでよくない・意味がないと思っていたのです。しかし、ヴィゴツキーの理論的には、むしろ子どもは模倣することで成長するのだというわけです。この考え方を知ることで、僕は子どもにやり方を見せたり教えることに対する罪悪感がなくなりました。
やり方を教えてやってみるのをサポートする。そうするとできることが増えるんです。かなり子育てが自由になりましたね。「こうこう、こうしなさい」と命令的になるのではなく、「やりたい」という気持ちと「でも、できない」という気持ちの出会うところに、模倣・教授ということを入れることができます。そのあたりを見つける感覚が磨かれた気がします。僕の経験から、このヴィゴツキーの理論のところは特に、親であるみなさんに読んでいただければ、家族の関わり方がポジティブに変わると思います。
市川:僕も、「模倣」を軽々しく捉えてほしくないと思いますね。実は、模倣、つまり真似をすることは大変難しいことなのです。真似をしようとすることで、なんとか自分の知識を構成していくわけです。ジェネレーターはそれがわかっているので、子どもがすぐに知識を構成できなくても、絶対に「どうしてできないの?」といった非難はしません。「できることのやり方を教えれば子どもはできるようになる」という気持ちは、さらさら持ち合わせていないのがジェネレーターです。ですから、ジェネレーターができることは、自分だったらこうするという姿を真剣に見せることだけ。そうすることで、相手が模倣して、主体的に知識を構成するチャンスになる…かもしれないという場をつくるしかありません。
——模倣もクリエイティブ・ラーニングの一部であるという考え方は、意外でした。模倣は知識を受け取るだけの行為ではなく、知識を構成する行為だということですね。
井庭:そうです。何かをやろうとしても、やり方がわからないので、そのやり方を教えてもらって、自分でやっていこうとするプロセスで、「なるほど。こうすれば、こうなるのか」と知る経験がつくられるのです。つまり、真似をすることで学ぶのではなく、真似をして実践した「経験」から学ぶのです。構成主義の考え方にもとづけば、実践や経験なしに、知識が外から注入されて学ぶなんてことは、起きないのです。
市川:僕の「おっちゃん」としての活動でも、「これをやろう!」と先にミッションを出します。それについて、教育関係者や保護者から、「子どもが主体的に課題を選んでいないから、だめなのでは」とさんざん言われてきました。でも、子どもに選ばせると、子どもは自分ができることしか選びません。そうすると、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」理論とは逆のことをすることになってしまいます。子どもは経験や知識が少ないから、無邪気でいられます。子どもに、自分ができることを選ばせてしまうと、「子どもは無邪気でいいよね」というレベルに留まってしまい、その先の成長がありません。だからこそ、特に子どもは、模倣を通じて背伸びして経験を拡張していく必要があります。逆に、知識があっても甘んじることなく無邪気にわからない領域に手を伸ばすのが、ジェネレーターとしての大人なのです。
井庭:『クリエイティブ・ラーニング』に多いに刺激を受けて、家庭でもぜひいろいろな実践をしていただければと思っています!
<後編・完>
(取材・執筆 鯰美紀)
『クリエイティブ・ラーニング:創造社会の学びと教育』(井庭 崇(編著), 鈴木 寛, 岩瀬 直樹, 今井 むつみ, 市川 力, 慶應義塾大学出版会, 2019年2月出版)